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十七烈士之墓

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 乙訓郡大山崎町天王山の山中に、画像の十七烈士の墓は静謐な佇まいをみせています。ここに眠るのは、真木和泉守こと真木保臣以下元治元年七月の禁門の変において敗れた攘夷派の浪士達十七名ですが、その壮絶な死は決して報いられたものでは無かったようです。
 禁門の変(或いは蛤御門の変)の詳細については触れませんが、一度は京都を追われた長州勢が失地回復を目指し京都に進軍したのはややごり押しが過ぎた様にも思われます。実際このとき離宮八幡宮などを中心に布陣した長州勢はわずかに二千余り。しかもその数は真木保臣に率いられた久留米や土佐・肥後の脱藩浪士ら三百余名を併せてのことですので、いかに直衛の会津藩兵がいささか手薄であったとはいえ、薩摩藩兵や諸藩兵はそれほど間をおかずに駆けつけられる状況にあり、実際には二万近い敵兵と対峙する可能性が極めて濃厚ですので、結果は火を見るよりも明らかだったと言えるでしょう。
 無論、このいかんともしがたい劣勢を久坂玄瑞ははっきり認識しており、男山の石清水八幡宮における軍義において「今進軍することは無謀である」と進言していたわけですが、来島又兵衛らが強硬に進撃を主張し、真木保臣もこれに同意したことによって進軍は実質的に避けられないものとなったわけです。そしてやはり予想通りに薩摩勢の援軍が到着して間もなく長州勢は総崩れとなり、離宮八幡宮の本営も撤収することになりましたが、このとき真木保臣は敗残の浪士達二百名余りに対して「我らが殿となって防ぎにあたるので、諸君らは長州に落ち延びて再起を図ってもらいたい」と言って、配下の十六名とともに装束を改めたうえで追撃してくる薩摩・会津藩兵、そして新撰組を迎えうちます。しかし、圧倒的な多勢に無勢では抵抗も長続きせず、最期は全員で陣屋に火をかけて切腹して果てました。
 このように身命を賭して同士を逃がしたその一ヶ月後、長州藩は下関戦争において四ヶ国連合軍に残敗を喫して降伏、多額の賠償金を支払うこととなり、攘夷は実質的に不可能となってしまうわけです。この時点で、伊藤博文や井上馨といった同藩内でも開明的な人物は強硬な攘夷論が無謀であることに気付いていましたが、真木保臣らは残念ながらそこまでは見通せていなかったと言われます。彼の主張する尊王攘夷論は多分に観念的かつ精神論的であり、実践的な内容を伴ったものではなかったとも評されますが、かの時代における知識人にはおのずと限界もあったわけで、現代の視点からその様に評してしまうのもいささか酷な様な気も…。
 ともあれ、その後の顛末は既に史実として皆様がご存知の通り、結局坂本竜馬らを仲立ちとして薩長同盟が結ばれるわけで、維新を実際に推し進めたのは理想や主義主張よりも数の力(政治力とも?)が大きな役割りを果たしたことは間違いないでしょう。そう考えてみると、その様な結末を見ることなく己の理想に殉じることが出来た保臣ら十七烈士の死は、ある面においては報われた死であったと言えるのかもしれません。


十七烈士之墓

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