その他雑記など
酒船石
明日香村岡にある、その名の通り小高い岡の竹林の中に画像の酒船石があります。
この表面に様々な窪みや溝が彫り込まれた不思議な岩は、既に取り上げた亀石等と並んで飛鳥を代表する石造物の一つといえるでしょう。本居宣長の著作にも『さかぶね』として登場している事からこの名で呼ばれていますが、現在に至るまでその目的や用途は一切不明のままです。江戸時代から盛んにその用途などについての論考が行なわれていることから、少なくとも江戸初期或いはそれに先んじる戦国~安土桃山期には既に当初の目的や用途についての記録や伝承は失われていたものと思われますが、其れでは一体いつ頃までこの石造物が機能していたのかも確かなことは分かっていません。
平成十二年頃までの間に、周辺で断続的な発掘調査が行なわれた結果、北北西に約八〇メートルほどの距離に円形の亀形石造物を中心とする利水遺跡が発見されており、それら遺跡から酒船石に至るまでの斜面からは車石と呼ばれる溝を彫った石が複数発見されていること、酒船石の存在する岡は版築や石組みなどにより人工的に造られた地形であることなどなどから、これら全てが何らかの祭祀を目的として整備された利水施設であると考えられているものの、漠然とした推測の域を出ていないと思われます。また、亀形石造物周辺の発掘調査の結果、それらは平安中期前後まで何らかの形で使用されていたと推測されていますが、それでは酒船石もそうだったのかということも未確定です。
亀石等と違ってここまで発掘調査が進んでいるにもかかわらず、相変わらずその正体が全く分からないのはなぜなのでしょうか? 最近では流体力学学会において、東洋大学のチームが酒船石が流体素子である可能性について検討した論文を発表するなどなかなか意欲的な考察もされているようですが、Y.E.H的には、やはりこれは占いの道具だったのではないかと思うのです。
現在の酒船石は、前述の亀形石造物の方向に向かってわずかに傾斜しており、それをもって両者の関連性が考察されているわけですが、それを前提とした場合、一体何の目的で彫り込まれたのか用途が不明な窪みや溝が多すぎます。もしこの岩が上流側であって、ここから何らかの液体などを流したのであれば、それらのいわば行き止まりの水路が彫り込まれた理由がどうしても説明できません。ですので今でこそこの岩は傾いているわけですが、もともとはほぼ水平に、さらに言うならば現在の傾斜とはやや逆に傾いていたのではないかと考えます。
岩の上に複数彫り込まれた窪みは、おそらくそれぞれに異なる顔料や或いは何らかの浮き子のような物が投入され、それらが微妙な傾斜に従って中央の長円形の窪みに流れ込み、そこで複雑な模様をなしたり運動をしたりするように設計されていたのではないでしょうか。古代の中国においては、王朝の意思決定や日々の吉凶に至るまで、亀卜を用いた占いによって神の意思を確認することが行なわれており、それら卜占は古代日本にも輸入されて、古墳時代の後期には既に朝廷で実施されていたわけです。しかしながら、亀卜に使用する亀の甲羅は大型のウミガメのものであり、大きな行事や祭祀においてはそれらが用いられていたでしょうが、日常的に亀卜を行なうためには膨大な数の亀甲が必要になります。そこで、日常的な吉凶を占う際にはこの酒船石が利用され、亀卜においてひびの入り方によって結果を判ずるのに習って、水面に浮かび上がった文様や浮き子の動きによって吉凶を判じたのではないかと思うわけです。
亀形石造物との関係について言えば、丘の上に据えつけられた酒船石によって神託を得た神官や巫女達が、その結果を持って亀形石造物遺跡を中心とする祭祀施設において託宣を告げ、水や何らかの液体を張った亀形石造物のうえでそれを再現してみせたのではないかと想像してみます。言うまでもなく水盤が亀形に加工されているのは、それがもともとは亀甲を用いて行なわれる亀卜の代用だからなのではないでしょうか。
もちろんこれらの妄想は、当時の大和朝廷が莫大な数の大型の亀甲を上納させるほどには強い権力を有していなかったのでは…という推測の上での話ですので、その位の力は十分にあったよ! と分かったらその時点で雲散するのですがね…。

この表面に様々な窪みや溝が彫り込まれた不思議な岩は、既に取り上げた亀石等と並んで飛鳥を代表する石造物の一つといえるでしょう。本居宣長の著作にも『さかぶね』として登場している事からこの名で呼ばれていますが、現在に至るまでその目的や用途は一切不明のままです。江戸時代から盛んにその用途などについての論考が行なわれていることから、少なくとも江戸初期或いはそれに先んじる戦国~安土桃山期には既に当初の目的や用途についての記録や伝承は失われていたものと思われますが、其れでは一体いつ頃までこの石造物が機能していたのかも確かなことは分かっていません。
平成十二年頃までの間に、周辺で断続的な発掘調査が行なわれた結果、北北西に約八〇メートルほどの距離に円形の亀形石造物を中心とする利水遺跡が発見されており、それら遺跡から酒船石に至るまでの斜面からは車石と呼ばれる溝を彫った石が複数発見されていること、酒船石の存在する岡は版築や石組みなどにより人工的に造られた地形であることなどなどから、これら全てが何らかの祭祀を目的として整備された利水施設であると考えられているものの、漠然とした推測の域を出ていないと思われます。また、亀形石造物周辺の発掘調査の結果、それらは平安中期前後まで何らかの形で使用されていたと推測されていますが、それでは酒船石もそうだったのかということも未確定です。
亀石等と違ってここまで発掘調査が進んでいるにもかかわらず、相変わらずその正体が全く分からないのはなぜなのでしょうか? 最近では流体力学学会において、東洋大学のチームが酒船石が流体素子である可能性について検討した論文を発表するなどなかなか意欲的な考察もされているようですが、Y.E.H的には、やはりこれは占いの道具だったのではないかと思うのです。
現在の酒船石は、前述の亀形石造物の方向に向かってわずかに傾斜しており、それをもって両者の関連性が考察されているわけですが、それを前提とした場合、一体何の目的で彫り込まれたのか用途が不明な窪みや溝が多すぎます。もしこの岩が上流側であって、ここから何らかの液体などを流したのであれば、それらのいわば行き止まりの水路が彫り込まれた理由がどうしても説明できません。ですので今でこそこの岩は傾いているわけですが、もともとはほぼ水平に、さらに言うならば現在の傾斜とはやや逆に傾いていたのではないかと考えます。
岩の上に複数彫り込まれた窪みは、おそらくそれぞれに異なる顔料や或いは何らかの浮き子のような物が投入され、それらが微妙な傾斜に従って中央の長円形の窪みに流れ込み、そこで複雑な模様をなしたり運動をしたりするように設計されていたのではないでしょうか。古代の中国においては、王朝の意思決定や日々の吉凶に至るまで、亀卜を用いた占いによって神の意思を確認することが行なわれており、それら卜占は古代日本にも輸入されて、古墳時代の後期には既に朝廷で実施されていたわけです。しかしながら、亀卜に使用する亀の甲羅は大型のウミガメのものであり、大きな行事や祭祀においてはそれらが用いられていたでしょうが、日常的に亀卜を行なうためには膨大な数の亀甲が必要になります。そこで、日常的な吉凶を占う際にはこの酒船石が利用され、亀卜においてひびの入り方によって結果を判ずるのに習って、水面に浮かび上がった文様や浮き子の動きによって吉凶を判じたのではないかと思うわけです。
亀形石造物との関係について言えば、丘の上に据えつけられた酒船石によって神託を得た神官や巫女達が、その結果を持って亀形石造物遺跡を中心とする祭祀施設において託宣を告げ、水や何らかの液体を張った亀形石造物のうえでそれを再現してみせたのではないかと想像してみます。言うまでもなく水盤が亀形に加工されているのは、それがもともとは亀甲を用いて行なわれる亀卜の代用だからなのではないでしょうか。
もちろんこれらの妄想は、当時の大和朝廷が莫大な数の大型の亀甲を上納させるほどには強い権力を有していなかったのでは…という推測の上での話ですので、その位の力は十分にあったよ! と分かったらその時点で雲散するのですがね…。

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